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【科学の言葉を知る5】パラダイム——気づかぬうちに縛られている“思考の壁”

私は、20代(1990年代後半)のころ、賢いふりをしたくて「現代思想」という雑誌をときどき買って読んでいました。当時は、ソーカル事件などがあって、権威主義の根底がゆらいでいるのが面白かったです。ソーカル事件というのは、アラン・ソーカル(Alan Sokal)というアメリカの物理学者が、わざとナンセンスな論文(物理学者にとってはでたらめなパロディ論文)を“難解そうな言葉”で書き、何かすごそうな雰囲気をだしている学術誌 Social Text に投稿し、それが掲載されてしまった事件のことです。
 それはさておき、「現代思想」という雑誌では、入門的な科学思想史や用語の説明をする号があって、「科学とは何か」を深く考えるのに少しは役だったと思います。今回は、私がその当時知り、科学の発想について大きな影響を受けた 「パラダイム(paradigm)」 という言葉について説明したいと思います。
 パラダイム(paradigm)という言葉が科学論の中心概念として広く知られるようになったのは、物理学史家トーマス・クーン(Thomas S. Kuhn, 1922–1996)が 1962 年に出版した 『科学革命の構造(The Structure of Scientific Revolutions)』 によってです。クーンはこの著作の中で、科学の発展を「直線的な進歩」ではなく、ある時期に共有される「世界の見方の枠組み」が崩れ、新しい枠組みに置き換わるという パラダイム転換(paradigm shift) として説明しました。
 しかし、この「パラダイム」という言葉の独特な使い方は出版当初から大きな議論を呼びました。概念が広すぎる、曖昧だ、社会学的すぎる――といった批判が寄せられ、クーン自身も後年、用語の意味をより明確にするために補足説明を行っています。とくに彼は、パラダイムという語を「科学者集団が共有する信念・価値・技法の体系(disciplinary matrix)」や「典型例(exemplar)」といった、より限定的な語で説明し直しています。
 パラダイムは歴史的にも議論の多い概念ですが、科学の営みにおいて非常に有用な視点を提供してくれます。したがって以下では、厳密な学術的定義にこだわりすぎず、研究者が実際に感じる“見方の枠組み”としてのパラダイムを解説していきます。

1. パラダイムとは「世界の見方の基本姿勢」:理解には“ひな形”がある

 トーマス・クーン(Thomas S. Kuhn, 1962)が提唱したパラダイム(paradigm)とは、科学者が世界を理解し、現象を整理し、研究を成立させるために共有している “ものの見方の枠組み” を表します。クーン自身は後年、パラダイムを「科学者集団が共有する信念・価値・技法の体系(disciplinary matrix)」と説明しなおしていますが、いずれにせよ重要なのは、科学がある時期において、共通の前提のもとで運営されているという点です。
 パラダイムには、たとえば次のような要素が含まれます。

  • どの現象を重要な問題とみなすか ― 研究すべき対象や問いの選択基準

  • どの変数を測定し、どの量を無視するか ― 観測・データ化の前提となる価値観

  • どの方法が「正当な科学的方法」と認められるか ― 実験手法、統計方法、理論構築の規範

  • どの説明が科学的に妥当と判断されるか ― 証拠・因果性・モデル化の“許容範囲”

 研究者は通常、これらを逐一意識しているわけではありません。むしろ、空気のように当たり前だと思い込んでいる前提として共有し、その枠組みの中で研究を進めています。クーンの言うパラダイムとは、科学者が世界を理解する際に使う「ひな形(exemplar)」 が集まったものでもあります。つまり、典型的な成功例(標準的な実験、典型的な問題設定、有名な教科書の例題など)が、研究者の思考を方向づけるのです。

2. クーンが登場する前の「パラダイム的な考え方」

 パラダイムという語を学術的に広めたのはクーン(1922–1996)ですが、科学の「枠組み」を意識した研究者はそれ以前にも存在しました。ここでは、クーン以前の重要な思想を簡単に紹介します。

2.1 フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561–1626)

—— 「思い込み(イドラ)が科学の妨げになる」 

 ベーコンは、近代科学の方法論の祖とも言われ、人間が世界を見るときに陥りやすい偏見や思い込みを「イドラ(偶像)」と呼びました。

  • 種族のイドラ(人間の本性による偏り)
  • 洞窟のイドラ(個人の経験・性格による偏り)
  • 市場のイドラ(言葉による誤解)
  • 劇場のイドラ(伝統や権威による固定観念)

ベーコンの問題意識は、まさに「科学は見方の制約を受ける」というパラダイム的発想に近いものでした。

2.2 イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724–1804)

—— 「人は世界そのものではなく、人間の枠組みを通して世界を知る」

 カントは、『純粋理性批判』(1781)において、人間は〈物そのもの〉を直接知ることはできず、時間・空間・因果といった「認識の枠組み」を通して世界をとらえると論じました。これは、後世の科学哲学に大きな影響を与え、クーン的な「世界観の転換」へとつながる重要な思想です。

2.3 エルンスト・マッハ(Ernst Mach, 1838–1916)

—— 「科学理論は“経済的な記述”である」

 マッハは、物理学における前提を批判的に分析し、科学理論は現象の“経済的・効率的な整理”にすぎず、絶対的真理ではないと論じました。アインシュタイン(1879–1955)は若い頃にマッハの影響を強く受け、後の相対性理論につながったとされています。  ここにも、「枠組みが変われば見える世界が変わる」という思想が流れています。

3. クーンのパラダイム論を支える概念

 クーンの議論は「パラダイム」という単語だけが独り歩きしやすいのですが、実際にはいくつかの補助概念が相互に関係しながら科学の営みを描写しています。以下では、クーンの科学観を理解するうえで欠かせない主要な用語を整理して解説します。

3.1 通常科学(normal science)

 クーンの有名な主張の一つは、「科学者の日常の研究は科学革命ではなく、通常科学である」という点です。  
 通常科学とは、既存のパラダイムが正しいとみなし、その枠組みの中で「パズル解き」を行う時期を指します。ここでいう「パズル」は、パラダイムが前提としている世界観を壊さない範囲で、未解決の問題を埋めていく研究活動です。
 例を挙げれば、

  • 既存の理論が予測する値をより精密に測定する
  • 標準的なモデルを改良し適用範囲を広げる
  • 教科書的な手法を応用し、新しいケースに当てはめる

といった作業です。
 クーンにとって通常科学は、科学の大部分を占める安定期の活動であり、それがあるからこそ科学は蓄積的に進歩するという重要な位置づけをもちます。

3.2 異常科学(extraordinary science)と危機(crisis)

 しかし、通常科学の過程で、ある現象がどうしても説明できない「例外(anomaly)」が蓄積することがあります。クーンは、例外が一定の臨界点を超えると、研究者コミュニティ全体が不安定化し、「このパラダイムでは説明できないのではないか?」という疑念が芽生えると述べました。これが 危機(crisis) の段階です。
 危機の時期には、

  • 理論の前提に対する批判
  • 方法論の見直し
  • 根本的な問い直し

が生じ、科学者は「通常科学」のルールそのものを疑い始めます。クーンはこの段階を「異常科学(extraordinary science)」と呼びました。日本では、"extraordinary science"が「異常科学」と訳され、一般に使われてきましたが、私はこの日本語訳は誤解を生む表現だと思います。私には、「例外期の科学」のように意味に響きます。

3.3 科学革命(scientific revolution)とパラダイム転換(paradigm shift)

 危機が深まると、従来の理論や方法では説明できない現象を扱えるような新しい理論が登場することがあります。クーンは、こうした劇的な変化を科学革命(scientific revolution)と位置づけました。
 革命は、単に新しい理論が旧理論を置き換えるだけではありません。より本質的には、研究者が世界をどう見るかという「前提そのもの」が変わるという意味があります。
 たとえば、

旧パラダイム 新パラダイム
天動説 地動説
ニュートン力学 アインシュタインの相対性理論
古典統計学 量子統計・情報論的統計

などがその例です。
 クーンはこの根本的な転換を パラダイム・シフト(paradigm shift) と呼びました。

3.4 不通約性(incommensurability)

 クーンのパラダイム論の中でも最も議論を呼んだ概念が 不通約性(incommensurability) です。不通約性とは、異なるパラダイムに属する科学者同士は、世界を“同じ物差し”で評価できない部分があるという主張です。
 たとえば天動説の研究者にとって「地球は動かない」という前提は議論の基礎でしたが、地動説の研究者にとっては「地球が動く」ことこそ前提になります。 つまり、同じ現象を見ていても、どの概念を使うか・何を基準とするかがそもそも異なるため、完全に同じ土俵で議論できるとは限らない、というのがクーンの見方でした。
 この主張は、「科学は真理に一直線に近づく」という古典的科学観と大きく異なり、出版当初からさまざまな批判や誤解を生みました。  私は、物理学で博士号を取得した後に、生理学・医学分野へ踏み込みましたので、この不通約性の感覚は良く分かります。

3.5 模範例(exemplar)とパラダイムの学習

 クーンは後年、パラダイムという語が広すぎるとの批判に対応して、「模範例(exemplar)」という補助概念を導入しました。
 模範例とは、研究者が教育の過程で学ぶ、

  • 典型的な成功例
  • 標準的な問題設定
  • 教科書に載る例題
  • 固定された実験手法

のことです。
 たとえば、物理学における「単振動」「自由落下の測定」「理想気体の状態方程式」などは、科学者としての「思考の基準」を形成する模範例です。
 パラダイムとは、ある意味で、こうした模範例の集合として存在し、研究者の思考様式を方向づける「経験則的なひな形」であるとも言えます。

4. まとめ:不自由さに立ち向かえ

 研究という営みの中に身を置いていると、私は想像力を自由に働かせられる場面がある一方で、論文査読への対応や他の研究者との議論の中で、しばしば「不自由さ」を感じることがあります。こうした不自由な感覚は、単に自分の無知や勘違いに由来するのかもしれません。しかし同時に、現在のパラダイムそのものに生じている「ほころび」を敏感に察知している可能性も否定できません。
 科学の歴史を振り返れば、研究者が抱く不自由さや違和感は、新しい発想への入口となってきました。コペルニクスも、アインシュタインも、そして数多くの無名の研究者たちも、当時の常識の枠内で行き詰まった瞬間にこそ、思い切ってその枠組みの外へ踏み出しました。
 学生や若い研究者の皆さんには、自分が抱いた違和感を、どうか軽視せず大切にしてほしいと思います。そこに、次のパラダイムを開く可能性が潜んでいるかもしれません。

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