18世紀初頭、ロンドンは産業革命の萌芽とともに、商業と金融の中心地として急速に発展していました。 賭博や保険、海外交易といった「リスク」をめぐる新たな社会活動が活発化し、人々がコーヒーハウスの木製テーブルを囲んで議論を交わす光景が広がっていました。そんな喧騒の中、ロンドンの片隅にあるコーヒーハウスで、ひとりの亡命数学者が静かに数式と向き合っていました。
その人こそ、フランス・シャンパーニュ地方出身の数学者 アブラハム・ド・モアブル(Abraham de Moivre, 1667–1754) です。幼少期から数学に強い関心を抱いていた彼は、ユグノー(プロテスタント)としての信仰ゆえに祖国で迫害を受け、20歳のころ、英国へ亡命しました。しかし、彼は、優れた数学の才能をもつにもかかわらず、生涯にわたって大学や王立協会の正式な職を得ることができず、家庭教師として生計を立てながら、コーヒーハウスで数理的な助言をして生活していました。ロンドンの Old Slaughter’s Coffee House(スローターズ・コーヒー・ハウス) では、彼が「確率」や「運」に関する質問に小銭をもらって答えていたという逸話も残っています。
日本では、複素数のべき乗を三角関数で表す「ド・モアブルの定理」が高校数学で登場しますが、彼の名を冠したもう一つの偉大な成果――二項分布が正規分布に近づくことを示した「ド・モアブル=ラプラスの定理」――を知る人は多くありません。 この発見は、確率論から統計学への橋渡しとなり、現代の統計解析の礎を築いた重要な業績です。それほどの功績を残しながらも、ド・モアブルは正式な地位や経済的安定を得ることなく、晩年は貧困の中で静かにその生涯を終えました。
今回は、ド・モアブルが人生をかけて追い求めた「運と偶然」への問いが、やがて正規分布という普遍的な法則の発見へと結びついていく——そのはじまりの物語を紹介します。

1. 確率論のはじまり:ギャンブルから数学へ
確率論の起源を辿ると、16~17世紀のヨーロッパ、サイコロやコインなど「偶然の遊び」がその起点であったようです。 たとえば、17世紀中頃、フランスの賭博好き貴族 シュヴァリエ・ド・メール(Chevalier de Méré)が、サイコロ遊びで感じた「なぜ期待通りにならないのか?」という疑問を、数学者パスカル(Blaise Pascal; 1623-1662)に投げかけました。 パスカルは、友人数学者フェルマー(Pierre de Fermat; 1601-1665)と文通をし、ゲーム中断時の勝ち分配(いわゆる「分配の問題(Problem of Points)」)をめぐって議論を深めました。分配の問題とは、勝負が途中で打ち切られたとき、どちらがどれだけの勝ち分を受け取るのが公平かを考える問題です。そこから「期待値」や「確率計算」の基礎が生まれました。つまり「ギャンブル」という遊び・実践の場が、数学的な問いへと昇華したのです。
そのため、「確率論のはじまりは、ゲーム・賭博の興味から」とも言えます。ただし、完全に遊びだけが動機というわけではなく、保険・年金・天文学など、他の要因もありました。当時のヨーロッパでは、商業と海外貿易の発展に伴い海上保険が盛んになり、事故や寿命などの不確実性を数理的に扱う必要が生じていました。17世紀後半には、ジョン・グラントによる死亡統計の解析や、エドモンド・ハレーによる生命表の作成を通じて、年金や生命保険の料率計算に確率的思考が導入され、確率論が実用数学としての基盤を築き始めたのです。その意味では、ド・モアブルにとっても数学的知識を生かして職業的成功を収める機会はいくらでもあったはずですが、彼はあくまでお金にはならない「数学の真理そのもの」を追い求め、生涯を通じて確率と解析の理論的探究に没頭しました。
2. 当時の確率・統計研究の状況と研究者たち
17~18世紀初頭、確率・統計はまだ誰もが知る学問分野ではなく、数学者たちは主に「賭博」「保険」「天文学」「測量」などの個別の問題からアプローチしていました。フランスでパスカルとフェルマーが「分配の問題」をめぐって確率の考え方を生み出したその少し後、オランダのホイヘンス(Christiaan Huygens, 1629–1695、光の波動説を裏付けるホイヘンスの原理で有名)は1657年に著書『De ratiociniis in ludo aleae』を刊行し、確率計算の方法を初めて体系的にまとめました。この書では、パスカル=フェルマーの議論を発展させる形で「分配の問題」などの問題を扱い、後の確率論の基礎となる「期待値(expectation)」の概念を初めて明確に定義しました。
その流れを受けて、スイス・バーゼル大学の教授であったヤコブ・ベルヌーイ(Jakob Bernoulli, 1654–1705)は、死後に刊行された著書『Ars Conjectandi』(1713)で、繰り返し試行における成功確率の分布、すなわち二項分布(binomial distribution)を定式化しました。二項分布とは、たとえばコインを何度も投げたときに「表が出る回数」がどの程度の確率で起こるかを表す分布であり、偶然の積み重ねの中に潜む統計的な秩序を示すものです。さらにベルヌーイは、試行回数を増やすと結果が理論上の確率に近づくことを数学的に示し、「大数の法則(law of large numbers)」の初期形を提示しました。これにより確率論は、個別の賭博問題を越えて「推測の科学」としての理論的基盤を得ることになります。
一方、フランスから英国へ亡命したド・モアブルは、ベルヌーイと直接の親交はなかったものの、ベルヌーイの成果、とくに『Ars Conjectandi』を深く理解し、自身の著書『The Doctrine of Chances』(1718)でその理論をさらに発展させました。ド・モアブルは、ベルヌーイの二項分布をもとに試行回数が大きい場合の近似式を導き、のちに「ド・モアブル=ラプラスの定理」として知られる正規分布近似の発想を確立します。
つまり、ド・モアブルの時代は、確率・統計が体系化へと向かう転換期であり、彼はベルヌーイの理論を継承して解析的に洗練させた後継者的存在として位置づけられます。
ド・モアブルが通っていたロンドンのコーヒーハウスには、数学者だけでなく、物理学者や天文学者、金融業者、保険業者など、さまざまな分野の人々が集まっていました。そこでは、形式ばった講義や論文発表ではなく、日常の中で生まれる自由で活発な議論が交わされていました。誰かが新しい数式を思いつけば、その場で紙片に書きつけ、別の誰かが天体観測や株式市場の話を重ねる――。コーヒーの香りに包まれながら、科学・経済・哲学の境界を越えた知的対話が自然に生まれていたのです。
そのようなコーヒーハウス文化は、当時のロンドンにおける「知の交差点」であり、まさに学問交流のハブでした。17世紀後半から18世紀初頭にかけて、ロンドン市内にはおよそ2000軒ものコーヒーハウスが存在し、商人や金融家、学者、政治家、さらには作家や哲学者までもが同じテーブルを囲み、新聞やパンフレットを片手に最新の科学的発見や社会問題を議論していました。コーヒー一杯の値段で誰でも参加できる開かれた空間は、身分や職業の垣根を越えた情報交換の場となり、近代的な公共圏と科学的思考の土壌を育んだのです。ド・モアブルもその中で、アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton, 1643–1727)やエドモンド・ハレー(Edmond Halley, 1656–1742; ハレー彗星で有名) といった科学者たちと数学談義を交わした記録が残っています。彼ら天文学者や物理学者たちは、天体運動や測定誤差といった実践的な問題を通して、確率や統計にも関心を寄せていました。そうした環境の中で、ド・モアブルは数学・物理・確率という異なる領域を横断しながら研究を進め、後の科学の基礎となる思想を育んでいったのです。
そして興味深いことに、そのようなコーヒーハウス文化の名残は、現代の海外の研究環境にも受け継がれています。海外の大学や国際学会では、「コーヒーブレイク」の時間が必ず設けられています。研究者たちはその時間に分野の垣根を越えて会話を交わし、新しい共同研究の種が生まれることもしばしばです。つまり、18世紀のロンドンのコーヒーハウスが果たした役割は、形を変えて現代の学問世界にも息づいているのです。ド・モアブルがコーヒーを片手に語り合ったあの空気は、300年の時を超えて、今も世界中の大学や学会のロビーで静かに続いていると言えるでしょう。

3. ド・モアブルが発見した偶然の中の秩序
ド・モアブルは「多くの偶然を重ねたとき、どんな確率分布になるか?」という問いに取り組みました。具体的には、コイン投げや、成功と失敗の2事象から成る試行を何度も繰り返したときに、何回表が出るか、あるいは、何回成功するかという確率を表す二項分布を念頭に置きました。当時のコイン投げは、単なる遊び以上の意味をもっていました。「勝ち負け」や「順番」を決める最も手軽で公平な方法として親しまれていた一方で、その結果はしばしば「神の判断」――つまり運命の現れ――として受け止められていました。偶然を通じて神の意志を感じ取ろうとする時代に、ド・モアブルはその背後の普遍法則を見つけようと考えたのです。
二項分布の確率質量関数は以下の式で与えられます。
日本の高校で習うコンビネーションの記法を用いれば,
と書けますので,
とも表せます。さらに,定義に従ってコンビネーションを階乗で表せば,
ですので,確率質量関数は,
と書き換えることもできます。
たとえば、公平なコインであれば となり、この関数は「
回コインを投げたときに、ちょうど
回表が出る確率」を表します。
の場合、表と裏が半分ずつ出る
の確率は最も高く、
のように10回中10回表がでるような極端な事象ほど確率は小さくなります。
二項分布の分布の平均・分散は、それぞれ、
となります。これらは、期待値の性質と指示変数(indicator variable)を用いると簡潔に計算できます。
まず、二項分布は、成功確率 のベルヌーイ試行を
回繰り返したときの成功回数を表します。そこで、各試行が成功したかどうかを表す指示変数 (失敗のとき0, 成功のとき1が実現する確率変数)を
とすれば、成功回数を表す確率変数 は、
と書けます。
そうすれば、 の平均(期待値)は、
ですので、その和の期待値は、
となります。この計算では、確率変数の和の期待値が、それぞれの確率変数の期待値の和に等しいという性質を使っています。
次に、分散を計算してみます。まず、 の分散は
となります。和 を構成する変数はどれも互いに独立ですので、「和の分散」は「分散の和」と等しくなります。したがって、
となります。平均については、いつでも「和の平均」は「平均の和」が成り立ちますが、分散については、互いに独立のときのみ「和の分散」は「分散の和」が成り立つことに注意して下さい。
ここでは、正規分布を導出するために、平均からのばらつきを、標準偏差を単位としてで表す変数
を導入します。これは、標準化 (standardization)という変換で、 に対応する確率変数
の平均を0、分散を1にする操作です。
二項分布の形がどのようにして滑らかな曲線へと変わっていくのか――ド・モアブルは、その秘密を「隣り合う項の比」に見いだしました。
まず、二項分布の隣項の比は次のように表されます。
この式に
を代入し、試行回数 を限りなく大きくしていきます。すると、離散的だった確率の世界が、だんだんと連続的な形を帯びはじめます。その極限で現れるのが、次の近似式です。
もう、 という離散的な数え上げではなく、
という滑らかな変数で確率を表してもよさそうです。そこで連続変数の関数
を導入し、確率を
の形で近似します。
そして、、つまり「連続の極限」をとると、関数
が満たす微分方程式が静かに姿を現します。
この単純な方程式を解けば、なめらかな曲線が導かれます。
したがって、得られる分布は次のようになります。
これこそが、のちに「正規分布(normal distribution)」と呼ばれる――偶然が形を成した最初の滑らかな曲線です。学生の皆さんは、上の計算過程を自分の手で確認してみてください。
4. なぜこの発見が今日まで語られるのか
1733年、アブラハム・ド・モアブルは、自身が導いた二項分布の近似結果を小冊子として私家版で印刷しました。しかし、その発見は当時ほとんど注目されることはありませんでした。それから5年後の1738年、ようやく著書『The Doctrine of Chances(確率の原理)』第2版に正式な形で収録されます。それでも彼の名が広く知られるようになるのは、ずっと後のことです。
晩年のド・モアブルは、貧困と視力の衰えに苦しみながらも、数学への情熱を失うことはありませんでした。1754年11月27日、87歳で静かにこの世を去ります。彼の人生そのものが、「真理を求め続けた数学者の物語」として今も語り継がれています。
ド・モアブルの発見が特別なのは、それが単なる計算の結果ではなく、「偶然の中に秩序を見いだした物語」だからです。
コインを投げる。サイコロを振る。あるいは同じ測定を何度も繰り返す。こうした行為は一見、ただの無秩序な偶然の連なりのように見えます。 しかし、試行を重ねるほどに、結果の分布は次第にひとつの形――正規分布――へと近づいていくのです。
この「多くの偶然が集まると、必ず秩序ある形を生む」という意外な普遍性。それこそが、ド・モアブルが見いだした数学の奇跡でした。
当時、確率や統計はまだ生まれたばかりの学問でした。「確率」という概念自体が人々にとって新鮮で、どこか不思議で哲学的な響きを持つものでした。
ド・モアブルは、ギャンブルやコイン投げといった「人間の遊びの中の偶然」と、天文学や物理学のような「自然のゆらぎ」を、同じ数理のもとで理解できるのではないかと考えました。つまり、人の手による偶然と、自然界の偶然を支配する法則は、同じ構造をもつ――その気づきが、確率論という新しい世界の扉を開いたのです。
この発想は、のちにガウスによって「誤差の法則」として再発見され、さらにラプラス、ルジャンドル、リュヴィルらによって「中心極限定理」へと発展していきます。
19世紀には統計学と物理学の基礎理論として確立され、20世紀にはボルツマンやギブスの統計物理学、そして現代ではデータサイエンスや機械学習の根幹を支える考え方となりました。
ド・モアブルが導き出した小さな方程式は、やがて「偶然の法則」という普遍的な真理へと成長しました。それは、混沌の中に秩序を見つけようとする人間の知の象徴――まさに、300年を経てもなお輝きを失わない「知」の物語なのです。
5. おわりに
アブラハム・ド・モアブルは、名誉や地位とは無縁のまま、数式の中に世界の秩序を見いだそうとした一人の亡命数学者でした。コーヒーハウスで議論を交わしながら、彼は「人間の偶然」と「自然のゆらぎ」に共通する法則を見つけ出し、やがてそれは、二項分布の極限としての正規分布――すなわち「偶然の中の秩序」――という形をとって現れました。
この発見は、遊びと科学、日常と宇宙、個人の試行と普遍の法則をつなぐ架け橋となりました。ガウスが誤差の法則としてそれを再発見し、後の統計学や物理学がその上に築かれていったことで、ド・モアブルの静かな洞察は、三世紀を経た今もなお息づいています。